東郷克美 「津軽」1「津軽」は代表作。「人間失格」も特にいろんな意味で問題的な代表作だが、この「津軽」も代表作のベスト3には入りそうな作品と言ってよいだろう。 実物は、「新風土記叢書」の紀行文として、企画されて、書かれているものだ。 作家の亀井勝一郎も「津軽」を太宰の代表作にあげている。 私は、これを出来るだけ構造的に読み解きたいと思う。 これを書いたことが、非常に画期的なことだった。 「津軽」を書いたことによって、太宰が変わり、それがどんな意味をもつのか? 井伏鱒二に相談したら 「僕だったら旅をするような形で書くなぁ。」 それで このような紀行文的な形になった。 しかし、2週間のこの旅が その後の太宰の文学を大きく変革させた。 故郷との複雑で屈折した事情を見直し、これをきっかけに太宰の故郷感が、ガラッと変わった。 これを元にして「お伽草紙」も書かれている。 ユートピアという夢を描くようになった。 ユートピアとは、どこにもないという意味である。 その夢は、ある意味でアナーキズム的なユートピアを目指したが その夢が、戦後の社会の進行と対義して、ぶつかっていく。 斜陽館で、太宰は6番目の子、実質的には4番目の子として生まれた。 多額納税者の父親が作ったこの家は、津軽の名門と言われてきたが この家が、明治になってからの「成り上がり」の家だということが研究でわかった。 その研究家、相馬正一研究によると、最初は10丁歩ほどの地主だったが、たかだか30年の間に想像もつかないぐらい急激に膨張した。(250丁歩もの土地を獲得した。) 「津軽」の凶作年表をみると、津島家が大きくなった原因、金貸しによって大きくなったことがわかる。 百姓たちが、土地を担保に金をかりる。それが凶作によって、はした金で土地をとりあげられる。その土地を財力にものをいわせて掻き集めて大きくなったのが津島家だ。 斜陽館は「成り上がり」の家だ。趣味の統一がない。 洋風なレンガ塀、入るとすぐの帳場、二階はロココ風、50畳の宴会場、金の仏間、豪農風の囲炉裏が一緒になっている。 太宰がこの家の長男ではなく、4男に生まれたことが太宰にとって決定的なことになったのだ。 フクモトイズムによって、昭和のはじめに学生が左傾化してゆくのだが、その流れによって 高等学校時代には太宰も影響を受けた。 太宰という人間にとって、この左翼体験は普通の人間とは異なる意味をもつ。 それは、成り上がりの家に生まれ、一般のプロレタリアートとは違った意味、自分を全否定する形いったんは受け入れる。 その後に東大に入り、小山初代さんと一緒になる。 しかし、昭和7年に太宰は転向する。 昭和8年には、大変な時代だ、蟹工船の小林多喜二が虐殺されるというような時代。 治安維持法というのは、大変な法律だった。 転向によって、自己解体を行った「太宰治」という作家が生まれたのは、昭和8年からだ。 太宰治という作家を読み説くには、この転向ということ 考えなければ、読み解けない。 太宰治というペンネームを使って小説を書き始めたのもこれからだ。 井伏鱒二さんによると、このペンネームはサ行タ行の訛りを隠すために この名前を考えたんだ、と面白いことを言っている。 「地図」という初期の創作集を読むと、サ行、タ行は、ほとんど訛っている。 あのスタイリストが、結構酒を飲みながら訛っていたのかもしれない。 小山初代との結婚によって、分家除籍になった太宰は、家に帰ることを許されない。 昭和16年の、タネの重体でようやく家に帰ることが許される。 望郷の思いで、ずっと小説を書き続けてきた。 人によっては、長男の文治に向けて書かれているという人もある。 こういう思いで「津軽」が書かれている。 だが、この「津軽」は、今までの、故郷思考とは違って書かれているのだ。 自分でも語っている 一種の終末の意識だ。時代もおかしい。そして自分も、なんかおかしい。終末観とまとめて言っていい。 そんな時に、自分はどこから来たのか?を考えたくなる。それは、納得のゆく考え方だ。 この2週間の旅は、自分の人生にとっては、ある意味大きな事件になった。 なによりも、自分は津軽の百姓であるということを知る。 津軽の『つたなさ』を知ることによって、自分はホッとする。 『つたなさ』というのは、つまりは スマートさもない文化的なものもない、ということだ。 自分(太宰)という作家は大きく変わった。 そこで、自分(太宰)は 安心したのだ。津軽人であることを知って自分は安心したのだ。 その安心したことによって、自分(太宰)の小説も変わったのだ。 それは、自分にとっては大きな事件だったのだ。 ジャンル別一覧
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